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NHKの番組で、
スティーブライヒの音楽をやっていた。
私はこの人の事は知らなかったが、
現代音楽のテが好きな人なら誰でも知っている作曲家なようだ。
番組中にやっていた楽曲の中で特に強い印象に残ったのが、
「18人の音楽家のための音楽」
というもので、
延々と同じようなリズムが続く中で複雑に色んな音が絡み合い、
音の渦に巻き込まれてゆく。
クラシックのようにドラマチックに形式美が構成された音楽こそを音楽と捉えているような人であれば、
このような音楽は音楽的にはつまらないと思うかも知れないが、
私はなんともいえない渦に巻き込まれるように感動を覚えた。
私の作る音楽スタイルとはかけ離れているが、
実は私の深い部分に眠る思想と音楽をつなげようとしたとき、
このような表現のあり方は共感できるものがある。
私は音楽を作る時、そこに音楽性・楽曲としての美しさやある程度の普遍性を保つような意識がどこかにあるが故に、音楽性を犠牲にして思想や哲学を重視した音楽はあまり作らない。
だからといって、現代音楽が音楽性に乏しいとも思わないし、
逆に普遍性の兼ねた音楽性重視の音楽が音がきれいに並んでいるだけで深くは嘘で無機質であるとか薄っぺらいとも思わない。
要するにいいものはいい。
表現は自由だ。
どちらかといえばこのスティーブライヒの音楽スタイルは、
音楽性に優れているかどうかは解らないが奥には哲学のようなものが見え隠れするし、
それこそが表現の意味であるとも思うので共感できたのだ。
私は一応いくら激しい音楽を作ったりドラムを叩いたりしても、
「広く一般には理解不能」と思える音楽はあまり作ったり奏でたりしないが、
それは、ある意味で私が音楽というものの表現の幅に諦めを感じているからである。
音楽が音楽性を保ち続けようとするかぎり、
人間の深い部分や哲学は表現しきれない、
できたとしても、それはきっと「音楽」という形にはならない。
例えば、「愛」を表現するとしよう。
世には幸せ一杯の明るい光のようなイメージの「愛の歌」が腐るほどある。
私からすればそれらの大半は中途半端な表現である。
なので愛を音楽で表現するつもりは私はない。
表現すると音楽にならないからだ。
明るい幸せそうなメロディーに乗せて愛を歌ったところでそんなものは薄っぺらい。
そもそも、私は愛なんか要らない。
そんな恐ろしいものはないと思うからだ。
愛に心地よさがあればそれは愛ではないだろう。
自然であるということは不自然で、
普通であるということは普通でないのだ。
つまり究極を求めると全てその形が滅びてからその姿が現れ、
究極がかなったときはその姿を既に見たり感じたりできないのだと思うのだ。
つまり明るい幸せそうなメロディーに愛のテーマを乗せているのは、
真実の愛の少し手前のラインで、まぁ別にそれはそれでいいと思っている。
真実の愛を音楽で表現すれば不協和音しかない音楽になるし、
不協和音をかき鳴らすピアノを演奏している最中に線を引きちぎって観客の首を絞めにいったり、
ドラムを破壊してシンバルで自分の首でも切るとか、
ナイフや刀を振り回しながら観客席を暴走するとか、
そういうぐらいしないと愛は表現できないですね。
それを音楽に乗せる事は無理とわかっているから私はそのテの事をテーマにした音楽はあまり作らないし歌詞に乗せて歌にしたりもしない。
あくまでも私は音楽の中で音楽をやっていてその範囲の中での表現をやっている。
その向こう側へ音楽を使っていければよいのだが、
やはり行ける気がしない。きっと雑音になるからだ。いや、音にもならないかもしれない。
だから音楽には限界がある、それを解っていながら音楽をやっている。
だからある一定以上の深い何かの領域の何かは音楽とは別の形、
言葉などで伝えたいという思いで、自分の表現を何種類かに分かて表現したりしたいと思う。
音楽は音楽という形を保って最大限にバランスを保って作曲編曲をし、
そこより向こうの「音楽で無理そうな表現」は音楽を使わずにやりたい。
あくまで私はそうだというだけの話だが。
音楽という範囲を超えた何かギリギリの「深そうだけど音楽としてきくにはあまり聴くような感じにはならない」という楽曲も私は作ろうと思えば作れるし作りたいとも思う部分もあったりするので、
まぁいつかはそういうことをやりたいなとも思いますが、
あまりややこしい事をしてもすぐに理解されずに自分が死んでから100年経ってから時代が追いついても困るんで(笑)、まぁこれまでの作品をまずちゃんと流通させてかなり精神も経済も余裕ができたらそういうのもやりたいですね。でもまぁ福祉的な方面が音楽と同じぐらいやりたい事なわけだから、音楽という範囲で究極を追求するつもりは実はあまりないんですよね。
音楽と外部との関係性の中での音楽の究極というものは追求したいですけどね。
スティーブライヒの音楽をやっていた。
私はこの人の事は知らなかったが、
現代音楽のテが好きな人なら誰でも知っている作曲家なようだ。
番組中にやっていた楽曲の中で特に強い印象に残ったのが、
「18人の音楽家のための音楽」
というもので、
延々と同じようなリズムが続く中で複雑に色んな音が絡み合い、
音の渦に巻き込まれてゆく。
クラシックのようにドラマチックに形式美が構成された音楽こそを音楽と捉えているような人であれば、
このような音楽は音楽的にはつまらないと思うかも知れないが、
私はなんともいえない渦に巻き込まれるように感動を覚えた。
私の作る音楽スタイルとはかけ離れているが、
実は私の深い部分に眠る思想と音楽をつなげようとしたとき、
このような表現のあり方は共感できるものがある。
私は音楽を作る時、そこに音楽性・楽曲としての美しさやある程度の普遍性を保つような意識がどこかにあるが故に、音楽性を犠牲にして思想や哲学を重視した音楽はあまり作らない。
だからといって、現代音楽が音楽性に乏しいとも思わないし、
逆に普遍性の兼ねた音楽性重視の音楽が音がきれいに並んでいるだけで深くは嘘で無機質であるとか薄っぺらいとも思わない。
要するにいいものはいい。
表現は自由だ。
どちらかといえばこのスティーブライヒの音楽スタイルは、
音楽性に優れているかどうかは解らないが奥には哲学のようなものが見え隠れするし、
それこそが表現の意味であるとも思うので共感できたのだ。
私は一応いくら激しい音楽を作ったりドラムを叩いたりしても、
「広く一般には理解不能」と思える音楽はあまり作ったり奏でたりしないが、
それは、ある意味で私が音楽というものの表現の幅に諦めを感じているからである。
音楽が音楽性を保ち続けようとするかぎり、
人間の深い部分や哲学は表現しきれない、
できたとしても、それはきっと「音楽」という形にはならない。
例えば、「愛」を表現するとしよう。
世には幸せ一杯の明るい光のようなイメージの「愛の歌」が腐るほどある。
私からすればそれらの大半は中途半端な表現である。
なので愛を音楽で表現するつもりは私はない。
表現すると音楽にならないからだ。
明るい幸せそうなメロディーに乗せて愛を歌ったところでそんなものは薄っぺらい。
そもそも、私は愛なんか要らない。
そんな恐ろしいものはないと思うからだ。
愛に心地よさがあればそれは愛ではないだろう。
自然であるということは不自然で、
普通であるということは普通でないのだ。
つまり究極を求めると全てその形が滅びてからその姿が現れ、
究極がかなったときはその姿を既に見たり感じたりできないのだと思うのだ。
つまり明るい幸せそうなメロディーに愛のテーマを乗せているのは、
真実の愛の少し手前のラインで、まぁ別にそれはそれでいいと思っている。
真実の愛を音楽で表現すれば不協和音しかない音楽になるし、
不協和音をかき鳴らすピアノを演奏している最中に線を引きちぎって観客の首を絞めにいったり、
ドラムを破壊してシンバルで自分の首でも切るとか、
ナイフや刀を振り回しながら観客席を暴走するとか、
そういうぐらいしないと愛は表現できないですね。
それを音楽に乗せる事は無理とわかっているから私はそのテの事をテーマにした音楽はあまり作らないし歌詞に乗せて歌にしたりもしない。
あくまでも私は音楽の中で音楽をやっていてその範囲の中での表現をやっている。
その向こう側へ音楽を使っていければよいのだが、
やはり行ける気がしない。きっと雑音になるからだ。いや、音にもならないかもしれない。
だから音楽には限界がある、それを解っていながら音楽をやっている。
だからある一定以上の深い何かの領域の何かは音楽とは別の形、
言葉などで伝えたいという思いで、自分の表現を何種類かに分かて表現したりしたいと思う。
音楽は音楽という形を保って最大限にバランスを保って作曲編曲をし、
そこより向こうの「音楽で無理そうな表現」は音楽を使わずにやりたい。
あくまで私はそうだというだけの話だが。
音楽という範囲を超えた何かギリギリの「深そうだけど音楽としてきくにはあまり聴くような感じにはならない」という楽曲も私は作ろうと思えば作れるし作りたいとも思う部分もあったりするので、
まぁいつかはそういうことをやりたいなとも思いますが、
あまりややこしい事をしてもすぐに理解されずに自分が死んでから100年経ってから時代が追いついても困るんで(笑)、まぁこれまでの作品をまずちゃんと流通させてかなり精神も経済も余裕ができたらそういうのもやりたいですね。でもまぁ福祉的な方面が音楽と同じぐらいやりたい事なわけだから、音楽という範囲で究極を追求するつもりは実はあまりないんですよね。
音楽と外部との関係性の中での音楽の究極というものは追求したいですけどね。




